'Cause a prize beyond my reach.
P3Pネタバレ
見ての通りだよ!!!!!(自棄) 2周目で(ここ強調)小田桐に告られるイベントを見てしまって死にそうになりました。
結論から言えば、わたしはたとえ自分が女であろうとも小田桐とまごうかたなき親友でこのコミュをMAXしたいと思ったので正直このイベントとは無関係なのですが、一応見ました。とキッパリ言いたいところなのだが奴はこのイベントのフラグを叩き折っても最終的に思わせぶりなことを言ってきやがる……(怒)女とは親友になれないってェのかいい度胸だ(バキバキ)
まさかこんだけ言っといて最終的な思わせぶり(前に君に言ったセリフは僕にとってあのとき考えてた以上に意味があったんだよ、自分でも気付いてなかったけど、的なこと言われた)が同じってこたなかろうと思うので一応2周目もEDまで見たいと思います。もし同じだったらしつこい、しつこいのに自己完結、悪い意味でずるい、おまえはおれか、でもずるいのが人間なので小田桐がずるいのはうれしい(完結)
ちなみに2周めは天田様の生脚に顔を擦り付けて死にたいと思う。
(児ポ班くる)
しかし実際のところどうなんでしょうねこれは……。上記のようにこのイベント自体はわたしにはほぼ関係ないのですが、結局なんか思わせぶりなこと言われてしまったわけですし、しかも二次創作上の常識としてはこのイベントはおさえられる、というサブ事情も考慮するわけだろ。
というのも「この二人」が今後どうなるのかってことですよ。
P3は死の疑似体験ゲーであり、その主題・目的としては「死に触れる」「よく触れることで死とうまくつきあえるようになる」っていうことで、要するにプレイヤーにユーフォリアをさせるゲームなんですよ。と江戸川先生の授業でうまい言い方を思いつきました、というわけでコミュEDイベントというのはユーフォリアの感動演出をして「よい」死へのタッチをしてもらうためのものなんですが、でも感動だからといって感動だけを大事にしてもしょうがないんだよな。死にネタの感動っつうのは、「ああ死んでしまうんだな……もう会えないんだな……」という感動だけで終わってしまっては単なる勝ち逃げワッショイで、ホントはもうひとつ「死んでもいい満足」と「生きていく気概」を両立させてこその真の死にネタだと思うんすよ。
具体的には何が言いたいかというとわたしたちは小田桐の言う「いつか」や「もう一度」について、たとえそのときが来ないにしても、来ないということに「安心」せずに真剣にアタフタしたり覚悟を決めたりしなければならない、そうじゃなければ彼を愛して生きることができたとはいえない、ということなのです。もちろん「play(仮想)」は大事ですから、来ないという「安心」にくつろぐことによって彼の言葉の輝かしさをかみしめることはすばらしいんですけど、それだけじゃね。わたしはP3Pをアトラスの言うとおり「RPG(役割をplayするゲーム)の決定版」として全力で「遊」ぼうとおもってるから。
今までにもいろいろ説明してきましたが、わたしの描く「彼らのその後」というのはその、来ないことに安心しない、自分が生きていく気概、みたいなものなのかなーと、女主人公編をやって得られました。本当に小田桐は莫大なことを学ばせてくれるなぁ。
うみねこに「抗えばミステリー、屈せばファンタジー」みたいなこと書いてありましたけど、P3は「観ればミステリー、生きればファンタジー」なのかなと思いました、ファンタジーの使い方かなり違いますけど。ファンタジーっていうのは、仮想、うそごとの世界に「身を投じて遊ぶ」、ということね。P3のシナリオはストーリーとしても十分だから「観る」価値もあるし、そしてアトラスのゲームのゲームらしくすばらしいところとして「生きる」こともできる。
ゲームを「遊ぶ」、ゲームに「遊ぶ」ということの価値は、そのことを「自分で体験する」ことができるというところにあります。「生きている」。世界を自分の目で、自分の体で「わかる」「そう感じる」という納得は、「真剣な仮想」だから――つまりは「仮面をつけている」からこそ、如実に得られる価値ある体験なんだと思ってます。仮面が真実を誘発し、表情豊かにふるまうために仮面をつける、「遊ぶ」ということはそういう価値と最近授業で考えています。
淡く 気高く 清く あなたの胸で
そっと微笑み続ける花になって
(天野月子/Love Dealer)
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