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2024/07/03(Wed) 11:11:37



 他人の夢主設定だけ見せられるほど退屈なこたぁねーよな


 マリモは極タカ派夢女を名乗るぐらいですから孤立していて正常なのですが、どうやら夢好きのみなさん全体が業界では立場がないようですね。(言葉を選べ)
 まあ今までも知っていたのですが、ドリーム小説というものがホイッスル!から発生してはや干支も一回りくらいした時ここに至ってもまだ状況はあまり変わらぬのだなあ、と夢女子コミュニティに戻ってみてあたらめて感じた次第でございます。すなわち成立時からいる古株のマリモさんにおかれましては深刻な逃避の結果、てめえ12年間も何やってたんだよ、ということになるんですが。
 しかし夢女子いかに迫害されしか、という話になると、非リアがリア充に根暗と言われ、根暗にオタクがキモオタと言われ、腐女子がオタクから腐w女w子wwwと言われ、腐女子は夢女子を夢w女w子wwwと言い、呪いは永遠に生産され続けるのでそのへんのことはどうでもいいとしましょう。呪いは許しましょう。問題は呪いを受けたときの反応の中の夢女子の特性です。

 一言で言うと夢女子はガキくせえ
(言葉を選べ)

 いやあの、これはマリモが言葉を選べねえ野郎であるというだけじゃなくて、「そう思われている」では少なくともあるですよ、ねっ? でもその「印象」に、はっきりした理由を見出してることは案外少ないんじゃないかと思ったまでで話題にさしていただきます。
 オタ女のメインストリームである腐女子と比べて、なので両方おかしいに違いはないのですが、夢女子はガキくせえと思われています。事実低年齢層が多く20代などの「セミプロ的大人のお姉さま」がたの牽引力の小さい人種であるところが、腐女子と異なっており、これは弱点といってもさしつかえないところでもあると思います。「だから」ガキくさいのか? 実際ガキだからガキくさいのか? ていうかなんで干支一周してはいるのに大人のお姉さまがいないのか? やはり「卒業」すべき形態なのか?
 と、思ってもう一度夢女子界隈の迫害反応を見渡してみたところ、その嘆き方に、言葉を選べないマリモは思った、「そんな100ぺんも聞いたようなショック今更書いてんじゃねえよ」「自分が今センス悪いことになってるのわかんねえのか」「粋じゃないね」と。

 そう、「粋じゃない」。

 それこそが本当の理由である、とマリモはピカーンときました。どういうことか?まだ長ぇので下リンクに続きます。


 そもそもマリモが感じた「粋」とか「粋じゃない」とかとは何かを言いますと、江戸時代の美意識で、洒脱なものの楽しみ方がわかっている状態や行為、みたいな感じです。遊び方がうまい通人というやつですね。「遊女の誠」という言葉がありますが、遊郭という虚構の恋愛の場で「遊びである」ルールを忘れずに「はじめからうそであろうほんとう」を美しく愛してみせる洒落心を、現代の日本人も趣味の場で規範としているのです。腐女子の「セミプロ的大人のお姉さま」がたは何で他を牽引しているのかというと、マナーとか権利関係とかでではなく、その「粋さ」によって「粋たること」をこそ引っ張っているのです。
 おいらんの愛の言葉に「おれも惚れてるよおいらん、おれの心を受け取ってくれ」と手パンパンしたら、季節の生花とともに、笑える、でもセンスのいい大人のおもちゃが運ばれてきて彼女は恥らいながら笑う、みたいなのが粋で、一方「主さんに惚れんした♥」と言われてガチ泣きで「本当かい!?おれもだよ、あァどうしておれはお大尽じゃねえんだ、心中しかねえ……すまねえおっかさん……」とか思いつめる奴は粋じゃない、野暮、というのです。粋とはつまるところ「自分はバカなことをしている」とよくよく知ったうえで遊ぶという「客観性の美」です。腐女子が客観という美徳で遊んでいることは見たかんじ明らかでしょう、そして夢女子はそれに対して主観のプレイヤーです。
 野暮で、「自分はバカなことをしてる」という客観的わきまえに欠けてるのだ、と考えると、「大人のお姉さま」が他を粋でひっぱってくれないのも、低年齢層が多いのも、「卒業」と思われがちなのも、100ぺん言われたことにナイーブに傷つくのも、納得いくというものです。夢女子は野暮の存在だからガキ的見苦しさがあり、ゆえに迫害を受けることになるのです。毛ほどの客観をインストールした結果「私はキャラ×オリキャラ的な意識で自己投影ってわけじゃない」とかのやはり100ぺん言われた全く逃れられていない言い逃れを発してしまうさまも、まさに野暮、様式美、構造的に客観を余儀なくされている腐女子じゃこうはいかねえというものです。~おわり~

 いや、おわりじゃなくて、ここまで言っといてdisったのでもなくて、マリモが「夢女子は野暮である」ということにピカーンとしたのは、「だからいい」と気付いたこと込みだったのです。それこれから言うので石投げないでくださいすみません言葉が過ぎたですこのキモオタ女ども
 さて(ボコボコになりながら)、粋と野暮の対立ですが、考えてみてくださいよ、粋つまり「客観の遊び」をきわめていったらどうなるでしょうか。天下の通人として名をはせて無双郭嘉になるんでしょうか。数多の戯作を生み出して平賀源内になるんでしょうか。無双郭嘉も大奥源内もわたし好きなんですよねー!
 でも、答えはちがいます。そうはなりません。
 客観の遊びを極めた遊びは、どこまでも無意味な空虚になるのです。
 考えてもみてくださいよー。さっきの遊郭の例でキレイに粋に遊べてたとしますよね、あの人通人だわ!ともてはやされたとしますよね、でどうなるんです?兄貴おれに粋な遊び方ってェやつを教えてください!とかいう弟分が増えるんです?で?わきまえて美しくルールをプレイしてみせて、おいらんにも通人と認められて、で、それがなんだっていうんです?
 「それだけ」ではびっくりするほどすごいむなしいですよね。
 無双郭嘉にしろ大奥源内にしろあれは「自分はバカなことをしている」というわきまえとニヒルな粋の魅力はすごくあるけれども、その根本にはどうにもならない譲れない情熱がある。人を傷つけ押しのけてもときに見苦しくなったとしても自分だけの望みを選びたいという焦げるような苦しさがある。それなしに人は本当に美しくあることも、何かを楽しんで生きることもできないんですよ。それはちょうど、人が着ない着るために作られてもいない中身のない服が、モノであるという以上の美しさを放たないのと同じようにです。完璧にコーディネートされていても中身がないペタンと寝た服は服じゃありません。

 つまり野暮の源というのはわたしたち自身の裸の心だということじゃないですか。

 わたしもどちらかというと通人たろうという価値観を生きている者ですので、粋を求めることは遊びにおいて常にあるべきことだと思います。でも自分の中の野暮をまっすぐに生きてみることをおそれてはいけない。粋のルールはむしろその心を生きるための手段です。手段を目的にしては意味がないでしょう。夢女子はことにその目的をまっすぐ生きるチャンスを与えられているのです。
 自分の裸の心を恥じることは正しく服を着るのも正しい、それはすべて美しいことです。でもそうしながら、いつも心の声を率直に聞こうとし、それを世界に顕してみることに粋の全霊を賭けます。わたしたちは世界に野暮を言うために生まれてきたのですから。
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2013/05/20(Mon) 12:16:21
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管理者 2013/11/07(Thu)01:35:55 編集
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