やぼーん
一個下の記事に「自己投影乙」についての感慨を書いてませんでしたので、いつも言ってるようなことですが補足を少々。
書き手が自己投影するほど読み手が移入できないというのは完全に嘘だと思うんだよね(もちろん野暮100%だと読み手の目自体を意識できないのでブーですが)。自己投影とか移入といった言葉の定義の問題のとこもあるが。
人の「設定」的なおいたちや中二な憧れというのはそれぞれの勝手なものだからそれをメインにされると知らんがなだけど、人の心の材料は似ているし、同じ海を共有しているじゃん。「自己」っていうのはそういう心の核の部分じゃないの。しかも夢の場合2つの自己は同じ野郎に惚れているのであるよ。そりゃなんか共有してるよね。だから夢を書くときはその野郎をどういうふうに想っているかを掘り下げようはっきり見ようとしてるのですが。
逆に「設定」の間口広めでも書き手自身が自己として生きたこともないイワユルフツウノオンナノコなど描かれてもどこに移入せっちゅうねん、入る席虚無、設定の間口広くしたかったらセリフも感情特定表現も書くなというのです、マリモが知らんだけで女子の人格スタンダードがあるんだったら仕方ないですが。
ていうかねー、「こういうイワユルフツウニカワイイコになりたかったんだよね」は害悪とまでは言わんがそれはそのまま「なりたかったんだよね」というせつなさを描くためのコンプレックスの外部委託としてしか機能しないし、そのことに無自覚に書いているものは意味的にはメアリーさんと変わりないんだよね。見た目がマイルドだから他人を刺激しにくいかもしれないけど、やってるこた一緒だからね。刺激少なめだからってそういうのならタベラレルヨーって言ってるのってたいした欺瞞だよ。
さっき野暮言っていこうぜって言ったけどさ、まさに「こうなりたかった でもなれない だから書いて満足することにする」というのに無自覚な、これもまた「粋じゃなさ」だ。だから恥ずかしいそれを自覚してその悲しみをこそ共有していけばいいのに。客観の極みが美しくないのと同じように主観の極みはまた自分から目を背けている。無知の知、ということだ。本当にヤボヤボな奴っていうのは自分の野暮さも見ないんだよ。そういう野暮は美しくないよね。
まあ無知の知とかそういうのに関しては個人的に「無知はそれだけで罪だ……(徐庶)」と鬱屈しているのもありますが、夢女の野暮パワーを花開かせるのに粋が必要だと思うのはそういうことです。無垢で生命力にあふれてるけど美を知らない山猿娘と心空虚な都会の通人が交わってお互いを満たす話は萌えるしいい成長物語でしょ。そゆこと。
PR