昨日まで165センチ(敦盛)を相手にしていたこの身に先生のガタイはハードだぜ。
先生ルート凄いっすね。このゲームのシステムの粋を集めて作りこまれてます。ほんと紅玉ネオロマの何がいいって、システムで愛を語るところですよね。
シナリオは一部意図不明のヒネリがありましたがだいたい予想通り、たぶんあのヒネリはシステム上の流れに合わせたんだろうな。
システムで募った愛としては、先生がいないのに解禁されていく先生の必殺技、先生と共に戦えないのに開かれていく先生との絆の上限、てのが地味にうまいと思いました。すごく会いたくて切なくて仕方ないのがシステムに常に気付かされる。最後に先生を追って一人で道をゆくときに律儀に戦闘があるのもいいですね、すごく「一人でも追う!」という決意が内在化されます。
そのうえ私を越えていけと先生と一騎打ち戦闘になることは予想だにしていなかったのですが、このために先生ルートはやたら修行させられるのか、といたく感心しました。システムにおいてもシナリオにおいてもバランス調整と伏線消化がガッツリ組まれている。もし修行なしでこのイベントがあるとしたら先生にボコボコにされるか、もしくは先生がそんなに強くないことになってしまうのです。あんなにプレイヤー自身が経験値溜めまくって神子に使いまくったからこそ、この強い先生にも勝てる、というわけです。
まあわたしの場合自分を移入する主人公は最優先に強くするので特にイベントのために特別に修行したということはないですが。特に何もせず弱点属性の先生に2ターンで勝ちましたが。(舞で二連撃→先生の攻撃回避→花断ち→終了)それにしたってわたしが強くありたいと常に願うのも先生のような人がいるからこそ、実にいいシステム演出だったと思います。
それで二人逆鱗をいっしょに握りながら最終決戦に挑むわけで上の絵になるわけです。今までトコトン分かたれ避けられ拒まれていたのが手を繋いで、というステップを踏みに踏んだいいシーンだと思うのに、156センチのわたしとしては身長差が気になってうまく歩けません。(先生ほどデカければこっちの身長がいくつであろうとあまり関係ないかもしれませんが)
それにしてもデカい!相手がここまでだともう自分の身長が小さいということも受け入れられます。そうか……わたしが小田桐を好きなのはあいつがあそこまで男らしいと自分の女性性を受け入れられるからなんだな……。(なぜ小田桐の話に)まあ小田桐は置いておいても、こういう系統の人のマントの中にくるまれるのは目眩がするような夢ですね。封印の剣のゼフィ様の設定イラとかやばいっすね。小田桐でもああいう絵描こうと思っているものです。
なぜか話が小田桐にいきがちですがそれはこのあたりの好みがわたしのやや歪んだファザコンによるものだからだと思います。ちち……おや……?アレだよね、日本の妻たちが母性として偏重して愛されるのがよくないのと同じように、父性に目がくらんで父性ばかりを求めて男性を愛するのもよくない傾向だ、うん。なんとかしたいところだ。
まあ完全に小田桐を置いておくことなどできはしないのでテキトーにしといて、例の「全員が全員主人公と恋するために生きてきたのであるよ」構造ですが、敦盛とか先生とかやっていてそれは「キャラの不遇さ」が鍵なのではないかなと思います。
わたしは小田桐含め、「なんか不遇なキャラ」というのがそりゃあもう好きで、だからこそその「主人公と恋するために」キャラが大好きなんだと思います。しかもそれが「全員」となると感動は倍化だと思うんですよね、ここにもそこにもあそこにも不遇が隠れていて、大団円もあるだろうけど、その孤独はひっそりと、その人は笑う。
わたしが好むなんか不遇な人というのは、解放されない悲しみをひっそりと内に隠した人なのだと思います。そしてキャラゲーのシナリオはキャラクターの解放です。不遇なのが大事なわけじゃーないけど、つまりいまいち幸せじゃなかった人を幸せにするってことが大事。当たり前のようなことだけど、キャラクターの変容があまり見られないシナリオもある。
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