ホワイトデーでしたが逆チョコだった場合のホワイトデーってどうなるんでしょうね。そしてバレンタインデーにあげ合ってしまった場合はきっとお返し義務とかないのでしょうね。
とかホワイトデー話などしていますがこの絵はホワイトデー絵ではなく『観月の逆チョコ』というリクのお返事なのでした。ま……まる一ヶ月経ってるどころかネタの意味すら変わってきてんじゃねーか……。 日向さん遅くなってすみませんでした!
ちなみに観月はじめ→野守唯歌でバレンタインメーカーするとおもしろいことになるからやってみなよ。
どうも観月と野守の絵でポーズを入れるときは『首に突きつける』が入りがちです。
今、主小田主っぽいオリジナル小説と、観月を性別反転したピュアブラ百合っぽいオリジナル小説をチョイチョイ書いているのですが、それで描いた絵もそんなような感じでした。
わたしの書く恋は求道的でちょっと怖いとか普通に見たら寂しい話だとか思わんこともないのですが、こんな歳で求め続けることをやめたらそれはうそくさくてイヤだなと思うので、なおしません。
主小田主っぽい話のほうはゲイカップルのハルっぽいほうが自分でも怖いほど求めすぎ(ミッチー調)で死のような恋を常に要求して、でも小田桐っぽいほうは普通に落ち着いていく(というか全く変わらない)方向でいるもんだから不一致で困ったね、という話。マンネリズムって、『そのまま落ち着いていく』ってだけが答えとは限らんし、せっかくそのあたりずいぶん違う人間がいっしょにいるんだから擦り合わせてこその愛だよね。それにしてもコレは同性カップルだから書けるような生々しい話だな今考えると……。(異性カップルだととてもわたしに解決できるとは思えない)
ピュアブラっぽい話のほうはまあ……ピュアブラで書こうとした話からピュアブラ独特の(?)ギャグ臭を抜いてさらに純化して書こうと思ったら百合になったのです。やっぱり純化された性っていうのは、性だったとしても無性になるから、同性愛なんだと思います。自分の愛が終わることを嘆いて相手を愛せず、昔の愛も諦められない永遠コンプレックスの野守(のような女)と、野守もどきに言い寄られてもうずいぶん経って彼女を愛しているにもかかわらず相変わらずウジウジしてるおまえに神の鉄槌、という観月(のような女)の話。写真をブチ破りロケットを握り潰し、思い出をバッキバキにし合って、そして二人で泣けばいい、変わっていくことが悲しくてもいい、いっしょに苦しみたいだけだ、という話。
どうも、愛情というのは、迫った愛情というのは、いっしょに苦しむってことなんじゃないでしょうかね。お互いの、他には言えないような苦しみを、というかそれだからこその孤独を分かつことが、本当に機能してる愛情の関係なんじゃないでしょうかね。
だからバレンタインデー&ホワイトデーの贈物の苦悩を分かち合うというのはじつに愛情的行為なんじゃないでしょうかね。いや、それにしてはホワイトデーの苦悩量が多すぎるか……。そもそも男女が恋愛関係において同じことに対してだいたい見合った量の苦悩をするって相当限定された状況なんじゃね?
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