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2024/10/06(Sun) 17:29:29

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 ふと気付いた、うちのフラエンフラは要するにうちの主小田主の主体客体を入れ替えただけだと!
 ちょうどレミー×フィーリアがピュアブラの入れ替えだったように、鏡うつしのようになってる。これはいい収穫ですね。相手の心情がある程度実感的にわかるということはすごいことです。もしかしてこんな唐突にフランシスにハマり直したのは主小田主の肥やしのため?

 わたしは自他ともに認める男女ですが機を感じて無意識に選ぶ女性的直感能力にはやたら優れていて嬉しいことです。もしかしていろんな方が言ってくださるわたしの萌えアンテナの鋭さってコレのこと?単に萌えに従来を乗り越えた斜め上から切り込めることに関してなら、ただ既存の萌えについて整理したうえで大概の場合取り上げられないわたしの好みの萌えについて提言しているだけなのですが。要は好みが変だから革命的な意見を出せているだけなのですが。
 越境や二律背反、対立物の統合による個性化というテーマはわたしが必要としている時期にちょうど教育学部でも使えるような時期が来ていてたいへんラッキー千石です。このあたりまでで述べたことと関連していきなりわたしの人生目標を言うと、愛を越境することです。愛を個性化することなのです。

 わたしは虚構の虚構性をよくほぐして分析しようとするとともに、現在の現実の限界も同じようにしたい。虚構か現実の片方のみをどうにかしたいんではなく、どちらかにのみ生きることを最終目標にするのではなく、どちらもを越えた、いまだどこにも存在していないわたし自身のものへ越えたい。虚構と現実という対立物の設定自体にたいした意味はないんですけど。ただそれがわたしの中で意味のある対立だったというだけで、いくらでも他の対立で個性化はおこる。
 それが大事なものであればあるほど既存のものに重い価値はないのだと思います。そして既存のものの中からしか自分のものは見出されない。それはかならず対立から生まれる。間をとる、というのではないのです。間、は自分の世界ではない。ただ折り合うこととも違う。自分のものとして作るということがいちばんやりがいがあって一生終わらず、それでいて常に立派な完成地点でもあるんだよな。生きることで愛する、と言ったのはそういう意味なのかもしれません。

 わたしに、まだ未熟ながら対立物を持ち込んできてくれたのは観月だなと思います。なんというか、自分の中の偉大な影を他者に投影する神々的幼年時代を終わらせた。なぜなら奴は身をまかせられるようなカッコよさを持たず、庇護して満足すべき弱さも決して認めさせず、つまり父でも息子でもない、『わたしと同一ではないもの』という感覚っつーか概念っつーかをはじめて持ってきたからです。
 男性の成長のように書き表せば、わたしは観月への指向によって『子宮から出た』。例えばカッコよさ=何らかの力を持った人に頼ることでその力をわがもののように感じることも、また弱いものを庇護するという仮面によって感じられる力も断絶された。もちろん観月以外の人であればそういうことは十分可能ですが、観月を指向するときそれは許されなかった。『妄想という方法であるにも関らず』。『指向の先が虚構であるにも関らず』。
 観月はわたしの虚構であるのに、結局はわたしの精神のはたらきであるのに、わたしを守らず、わたしに見下ろされず、そのどちらもであることでいつまでも落ち着かずに、世界は休まるようなものではないということをわたしに教えた。その休まらない世界でしかし休まる瞬間がおそろしく幸せだということも。

 それと、対立物と関係することなのかわかりませんが、ころころ変わっていくわたしの複数の状態を、テーマを『渡った』のは今までの人生で観月だけです。基本的にわたしは、ヤドカリ女なので。ひとつを消化したら次に次にと使い捨てることで大きくなるはずですが、なぜだか……。
 というかなんで観月はよくて、他では同じことが起こらないんだろうね。そこが問題だ。観月の条件がいいということはもうわかってるけど、それで有意な範囲では収まらない気がする。

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2008/02/03(Sun) 18:14:42
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