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2024/10/07(Mon) 04:15:07

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  年々歳々花相似 歳々年々人不同


 わたしは結局のところ、観月とともだちになりたかったのかなあ、と最近思って満足を得ています。それは恋愛関係になりたくないという意味ではないということははっきりさせておかなくてはなりませんが、わたしの書く野守だけでなく観月も、相手を敵視し恨み憎みそれでも求めるパッションのさらに奥に、自分でもいまいち気付けてない友愛の夢がある。
 でも二人ともあんなんだし、野守があんなんであるということは書いているわたしもそれに気付けてなかったということで、どっちもともだちになろうなんて言えぬまま好きあって、相手を敵だと思うのをやめて、ごく近くで身を預けあってはじめて、自分はこの人とともだちになりたいんだな、と、少しずつ認められるようになっていく。結婚しようとするほど近付かなければ友情を申し入れることもできないなんていかにもピュアブラらしいごっちゃごちゃぶりだなあと、なんだかもう自分含めて微笑ましく感じます。

 というかわたしの友愛自体がおかしなもので、ものすごく近付いて、触れ合って目を開けてキスするぐらいの距離で目を見ねば、真の友愛の伝心は無理だとまで思ってしまいます。その時点で、やっぱりわたしが責任と理念をもって大切にすることができる人間関係はたったひとつの無二のものなんだなと思います。すなわち一人の人を、友として愛し、恋人として愛し、父として母として子として師として同士として子羊として天として大地として愛し、畏怖し、庇護し、ただそのために目を見る。
 生涯一人、と言いたいのではなく、わたしが本当に愛する人には最終的に、すべての愛が集中して向けられる、ということね。わたしはすごく淡白というかやはり薄情だから、本当に好きなもの以外にはまともに感情が振れてくれないんだよな。

 このあたりに気付いてみて改めて観月が愛しいなあと思います。なんかもういいんです。観月が虚像であろうと、存在しない勘違いであろうと、わたしの鏡であろうと、これが恋でなかろうと、わたしがこれからも彼の不在に、生きようと、いいんです。なんと言ったらいいのか、それこそ彼の目を至近に覗き込む夢想の一瞬にしかはしらない、しかも非言語の答えだからわからないけど、ただうれしくて満足です。
 わたしの青春に観月というやつがいてくれて本当に、わたしはラッキー千石(ここでイッツミー)だと思います。そういえば25日はその千石イッツミーの誕生日でしたね。


 薄情といえば、またしても他の女の子の美しさに目がつぶれる思いをしました。昔の男が近くにいるのが泣ける、思い出したくなくても思い出す、それがつらい、ひどい、という美しい涙に、わたしはなんと声をかけてあげればよいものか戸惑うばかりで、そうだねつらいね、とシンパシーして泣いてあげることはできないのですな。
 あげく昔は昔だし終わったことじゃん、とか、今男がいないということも嘆くべきことでもなんでもなかろう、とか、いろいろズレているであろうことを、言わなくても思ってしまうありさまで、なんと友達がいのない奴なんだわたしは……。
 わたしにはわたしのできることがあるとはいえ、この空気の読めなさはちょっと自分でも、ときどき辛いことがあります。申し訳ないし、途方に暮れてしまう。あっちはわたしを信頼して泣いてくれているというのに、泣かれると困るなどと思っているなんて、なんと失礼なことだろうか……。自分の男部分を女部分が非難していても逆でも、つまり男と女をちょっとずつ持っているがゆえに気付けることは多くても、何の役にも立てられない。
 中庸は好きだけどさ。

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2007/11/30(Fri) 23:26:52
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