就職活動前にウゼェ髪を常識的にしてもらったお礼とばかりに小田桐のハネ毛を消失させた主人公。
というわけで実習半分が終了です。実習に行くと毎度思うのですが、小田桐の政治家→教師という志向の転換は極端というほかないな……。つまり全く同じことがわたしにもいえるわけですけど。理屈としてはすごく正しい選択のようだけど、それ以前に人には向き不向きがあるからねー。
そんなわけでもし小田桐が結局教職に就かなかったとしても、あの決意を裏切ったことになるわけではない、などと、自分への言い訳も兼ねて思います。あれは「そういう方向を向けた成長」を表すキーワードにすぎない。そして「これからそういう成長をしていく」というベクトル表示。わたしはあの決意からそういう成長をしてきて、そしてそれをふまえて教職を貫くか否かを考えているわけです。
で、実習のストレス解消として昨日オカンと電話でしゃべくったのですが、先月29日めでたく彼女50の大台に乗りまして、わたしのほうがショックを受けました。あの美しく気高く自由で才気豊かな女がもう50代で気が弱くなっているだと……。
そういうわけで気が弱くなっているようで、わたしを独り立ちさせたくない!離したくない!という気持ちがますます強まってやや不健全な域までに達していまして、わたしが「オカンから自立できるようにしなくちゃね」と言い出した途端やだいやだいと泣き言モードでした。彼女もわたしもひとりっこだからなぁ、不安だよなぁ、結婚の選択は間違いムードたっぷりだしなぁ。
でもなんにしてもわたしはそれを言い訳にせず自立できる力をつけるべきなんですよね。オカンの孤独を支えてあまりある力を持たなければ。上述のようにオカンはわたしにとって美しく気高く自由で才気豊かな憧れの人であったので、オカンが子離れする気がないのと同じく、実質的にわたしも親離れできてないのですよね。
今だからわかりますが、親を嫌う、という経験をもたない子の不幸というものも存在するのですね。
健全には、親を嫌い、体制を嫌い、しかしそれらに個人として折り合えてきた人が親離れというエネルギーをもつのだと思うんですよね。そしてやがて親が気弱なひとりの老人になったときにも、個人として折り合えているならば、「あの強かった親が……!?」とショックを受けずにいられる。
彼女は「これだから外に出すのは嫌だったんだ、すぐに一人で生きてけるみたいなこと言い出すんだから」と呟いてましたが、今のわたしがチョーシに乗ってるのも事実、しかし一人で生きていける「ようにならなければならない」のも事実です。
そしてわたしが大人になろうとすることを恨むのなら、オカンは小田桐を恨まにゃならんよな、と、なんとなく思いました。観月はわたしが「わたし」になるのを幇助し、小田桐はわたしが「社会」を志向するのを幇助した、両方ともわたし自身の切り出しなのだ。
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