「自分」かつ「普遍」じゃないものっていうのは「他者」でそれはふつうのキャラだよね。「誰にとっても自分」になるように主人公を描きたい。「わたしに似ているなぁ」と思われるってことじゃなくて、書き手が実際に感じている生の気持ちの一歩奥にある普遍性をキャラクターのテーマとして表したい。 その点キタローは優秀な主人公(作者の人格が反映されやすくありながらどう表現してもわりと共有されたキャラの範疇)だったんだけど、ハム子は見せ方として二次創作に「ハム子」という一個のキャラ(=他人)を生成しがちなんだよね。もちろんキャラを描く際にもその人の個性っていうのは出るけど。 わたしはゲームという体験できるメディアに感謝しているから、主人公というシステムでこそ描けるものを描きたいと思うんだけど、そうするとハム子は難しいねー。二次創作世界のイメージとしてのハム子のキャラクター定義は言うなれば外殻にすぎなくて、その外殻の中身に書き手が充填されることになる。 共通イメージの外殻に書き手やその意思が充填されることに自覚的でいたいし、実は公式から共有情報として与えられてる「女主人公」は外見とわりとあっけら快活ぎみな雰囲気だけなので、そこからじっくりと出発できたらなと思うわけ。 まあつまり「いわゆるハム子受け」ならサラッと描けるがそれではわたしなりの意味のあるものを描いたことにならないわけよまじこまる 「いわゆる」とわたしの人格があんま似てないとかの問題ではなく外殻に対する考え方の問題だわな 主人公をキャラだとはとらえてないし、それでもキャラだとしたら中身不明で設定も実体もないわけで、単純にそういううつろを描く実力があるかないかって話でもあるわ。 多くの場合は「いわゆる」の世界に手を差し伸べるかたちで自分の感情移入対象として描けるし、読み手も「いわゆる」の世界とそこから接続する自分の移入対象を思って読めるんだけど。 まあマリモは全人類を他人であり自分であり普遍だと思ったり思わなかったりの電波野郎なので聞き流すがいい わたしは性質的にはかなり誰より小田桐に近いのになぜこんなに途方もない距離を感じるんだろうなーと他の人と小田桐の距離を見ると思うけども、たぶんわたしは距離をホイッと縮めたくないんだろうなめんどくせえ きみもツンデレわれもツンデレ(詰) (文学的なギャグをかましたつもり)(自虐ギャグもある) わたしは小田桐の世界を壊してやりたいのだ (この場合の「やりたい」は「殺してやりたい」とかより「助けてやりたい」に近い「やりたい」) マリモが音楽の助けを借りなければ小田女主描けないのは音楽が世界を美しくかき乱すものだからだなー。意思がありながら、かつ混乱というか目眩状態があるよね。 というわけで今日こそ小田女主描くんだ……ほんとに描くんだ……夜想曲で三浦さんの声聞きながら何かをつかむんだ……(源氏名バレすんな) なにひとつ思い浮かばないよ というか思い浮かんでも頭の中で形をとる前に\非認可!/てなるわけでこれは観月を描けなくなったときと同じやな 同じ空間にいることのできないこの感じ どう息をしててもとってつけたようにしかならない不様な悲しさまじぶざま PR 2010/08/19(Thu) 11:59:53
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