ヨスガ。優れたものが全てを支配する強く美しい国。
教育者が最も燃やしてはいけないコトワリを想うことで自分のかたちを保つ。
そういえば秋期の実習校が決まったんですが、きついけど勉強になるというし、そもそも原則的に行かなければならない決まりだし、みんな行きたくなさそうだしということで最も嫌われているところにサラッと行くことにしました。するとほうぼうからお疲れのまなざしで見られるしいっしょに行くことになった子はジャンケンで負けて「わたし死ぬ」と涙目だしと、なに、いじめ?キツいキツいって言うけど、勉強になるんだろ?
それとも教師マインド燃やしてるというわけでもないわたしが行くのはやはりもったいなかっただろうか。勉強になるというのなら変なボランティア精神出すべきじゃなかったよね。そしてそういう問題じゃなくキツいというのなら、そういう実習のならいはやめるべきだよね。
まあ闘うか否かは置いておくとしても、勉強になるというならみんななぜ我先にとその学校を争わなかったのかな。何度も言うけどわたしごときに譲ってしまうのはすごくもったいないよね。勉強になるってのは建前なら別にいいんだけど。それなら、マリモはときどき全く保身に興味がないので喜んで行くけども。
だってそこで身を守ってその先に確保したい未来とか別にないからね。みんなは、ぜひともしたいことがあるから死にたくないんだと思うんだよね。すごく立派で真似できないことだなーと思う。受動的に死地に行って死ねるなら、死にたいとか、思ってしまうのがわたしの罪だなぁ。ひとりが死にたいと思えば世界が死にたいに1傾き、生きたいと思えば生きたいに1傾くわけだから、しゃんとしなくちゃーね、と義務的に頑張りたく思う。
冒頭にヨスガの話を持ってきたのは、ヨスガはほんとにいいコトワリだなあと思ってしまうからなんだよな。弱者と怠惰を切り捨てて真に強いもの正しいもの賢きものだけが君臨する場所で、自分が弱者とされてもかまわない。ヨスガはある意味現実よりも弱者に確固たる居場所を与えている。自分がいかに弱くとも、美しい世界のために支配されることができるという居場所、そしてときには刑されるという居場所。それはすごく潔いかのようで、楽できれいだ。
でもしゃんとしなくちゃね。未来たちに、わたしのもらった幸せをちゃんとお返ししなくちゃね。みんなが幸せになれるようにしなくちゃ。そのためには、世界はわたしの楽のためにヨスガになってる場合じゃないんだ。世界は少しずつ変わる。そのためにわたしたちがいる。
わたしが生きている理由はいつでも彼がいるからというのしかなくって、それもほんとはいないんだけど、それだけがわたしの世界で光ってる理由で、いつも彼がするであろうことに励まされて、それをする。
この世に彼はおらず、わたしの中にわたしはいない。彼がいない世界でわたしが彼になる。わたしにできることはそれだけだ。
今できることを。明日やその先がどうなってもかまわない。彼ならそうする。わたしもそうしたい。
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