主人公はニュクスを眠らせて悪意から守ってるなんて綾主な事実でしたが、うちの主人公(要するにわたし)は綾時を一方的にニラんでいるのでこういう感じだろうと。そりゃさー一人でいるよりだんぜんいいんだけどさーそれにしてもおまえ?
なぜおれがおまえを嫌ってるかというとそれは不思議系ナンパ男という珍しいはずのポジションをおまえがかっさらったからだ。綾時はファ○○○(猥褻語)の育った姿なので主人公のことスキスキかもしれませんが、おれはかわいいファルがあんなファッションセンスのオールバックになったなんて断じて認めません。
急に持ち上がってきた天田萌えといいファルといい、ショタに目覚めたかのようですがそういうわけではありません。
(言い訳による補足である)
というわけでアイギス編終了しました。ラスボスはよそ見しながら倒しました。マジで赤シンボルシャドウのほうが5倍は強い…。人類の漠然とした死への憧れ・悪意にしては弱すぎるぞ…。まあ消せたわけではなく一時的に鎮めたという意味合いなわけだからいいのかもしれないけど。見た目は相当怖くおぞましい感じでしたがニュクスと比べるとよわよわ。
この悪意であるというエレボス、いまいちよく定義がわかりません。要は本編でニュクスを呼び寄せたのと同じ意思ってことですかね?死を忘れ、生の実感のために死の顕現を望む心、でいいの?悪意、って呼び方がいまいちよくわからんのだよね。どこかに死が降ってくることを望むということが結果的に誰かへの害意であるということに気付かない、という意味合いで『悪意』と呼んでるのかしらん。
そのへんからもつながるのですが、アイギス編のテーマはやはり本編と対になるようなかたちで、本編が『生を見出すための死』を描いたことを定義づけてから『生を見出すための絆』を対比してカテゴライズしてる。
生きていることをはっきりと示す切り口は死である、という認識が、本編をプレイした人にはなんとなくあると思うんですよ。『命のこたえ』というものについて、主人公の事例の感覚からも『死』を思い浮かべたと思うんです。でも同時に、プレイした人は生の切り口は『絆』である、ということも、漠然とながら受け取ってる。どっちかというと本編でもそっちがメッセージ性としてのテーマなんだけど、シナリオひっくるめての『主題』ではない(主題はやはり『死』)。それを補完的に言葉にしてみました、って感じかな。
まあ『mement mori(死を忘れるな)』と『絆』というものは、感覚的にはけっこう近いところにあるものなのですが、理屈的には遠くもあるので、こういう補完はあってもいいと思います。あんまり評判よくないらしいですけどね。『こたえ』は死でもあり、大事な人でもある、ということ、わかんないときはわかんないもんですからね。
こういう到達しにくい感覚を感じさせるというのはすごく丁寧なつくりあってこそだと思います。やっぱペルソナシリーズはすごいよねー。
でも後日談にはアイギス視点で後日の街やら学校やらを過ごせるもんだとばかり思っていたのでそこんとこは非常に拍子抜けです。なんだよ…それあっての『後日談』じゃないか…。おれが守ってる未来がどうなったのか見せろよ…。
まあその『見せない』あたりが『可能性を守る』ってことなのかもしれないですけど。なんだかんだ言ってこれで納得してますよ。だって小田桐に出会えたのだし、受け入れられる気がするよね。生も死も。大事な人が『こたえ』だというのは、そういうフィーリングをさすんだと思いますよ。まあ『わたし』の場合、それは観月からくるものだけど。
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