マリモがあれを読んだのは小学生のころだったけども、その当時から、もちろん小田桐と出会ったときのように初登場からそのいい男ぶりを確信していました。でもマリモのアンテナに即座にひっかかるような、つまり小田桐ポジの男が最終的には主人公の相手役になるというのがイズァローンのすごいところ なんかこれ似たようなこと前にも言った気もするけど、カウスとティオキアの配偶が深く印象に残っているからこそ、小田桐と男主人公を国士無双に絶対佳人とばかりにふたつひとつの関係と見たんだろうなー。なんかもうべつにうちの小田ハルはBLじゃないよ BLの定義がもうわからんよ ティオキアとカウスの物語はべつに燃える愛や無二の絆の話ではなく、「救い」の物語なんだよな。日本の少女マンガにおける少年愛ものがそのはじまりにもつ「耽美系」っていう流れのテーマは「魂の救済」であるようにおもうし、わたしもそれを意識して書いてる。美とは救済の姿の名前なのです。 おなじようにわたしは小田桐とうちの男主人公を「救い」の関係とみたわけな。トーマの心臓のユリスモールとトーマ‐エーリヒのように、人の孤独や弱さを愛してキリストは生まれ、その清らかな脆さに人の魂は救済される。 P3における主人公の死についてなんでわたしがサッパリとしてるかと考えると、そればっかりは主人公=自分と思ってることのよい側面といえるだろうなーとニヘラします。好きな子がいろいろ半ばで死んじゃったらやるせなくもなるけど、自分が自分の命をいっぱいに生きてると思えたらわりと平静だもんね 重要なのはP3というゲームがテーマの体感のために死とその前にある生を疑似体験するという意図であること、そしてそれを疑似体験したわたしが生きてるということです。だったらするべきことは、死にも恥じぬように生きる、それだけのことでシンプルだなと思うわけです。それ以上の必要はない。 なのでP3の二次創作は書き手が=主人公であるかそうでないかで前提の展開が変わってくると思います、つまり=主人公派であれば本人は生きてるわけでゲーム中の死は疑似体験という寓意だけど、そうじゃない派にはゲーム中の展開は寓意ではなく物理的事実の側面が勝つこともままある。 P3以外でもプレイヤーが主人公によってなんか経験するようなゲームにはそういう寓意のレベルみたいなのがあると思ってる。いや、ていうか、全部寓意か。ただ二次創作をするときにはゲームと同じテーマとつくりはもちろんしてないから、どういう基準でどこまでその世界を遵守するかを決める必要がある まあでもこれは「原作に感じたテーマ性に準拠したうえで書きたい!」という場合の話であってすべての二次創作にいえることじゃないんだけどね。一般化すると二次創作もその信念によって原作の要素を抽出すべきってハナシ。どういう意味の話を書きたいのかによって守るルールも違ってくる。 学問でも仕事でも創作でも日常のことでもマリモの思考の特徴は卒論中と変わらないです。何が目的でもだいたいいいと思う、ただ目的があるようではっきりさせようとしないのはダメだし、目的に合わせた方法や程度を選ぶべきだ。望むもののためにルールを決めて守ってこそ誇りも責任も持てるというもの。 中二病ってつまりコンセプトをはっきりさせられていないってことだろ?子どもがまだうまく考えられなかったり選べてなかったりいかようにも変化するのはふつうのこと。黒歴史っつーものが非常に恥ずかしいのはそれが拙いからじゃなくて、「今にして思えば十分考えず覚悟しないでやったこと」だからです。 表現にも人と同じように悪意をなだめて冷静に共感するべきで、たとえばコイツ読者にわからせる気あんのか、と思ったとしても、そこにはいろんな理由の可能性が存在して、もしかしたら、安易にわからせるようなことを言えない理由があって、そこにこそほんとうの意図があるのかもしれないのだ まあ結局誰にもわかってもらえないんじゃ表現してもしょうがないけど、漫然としてるだけでわかることだらけの世の中でもないのだし、受け取る側もジャンプすれば見えるか試みることはだいじだよね。そのうちジャンプ力上がるし、ときには読み手のジャンプ力を上げることを目的としてる表現さえある。 PR 2010/07/22(Thu) 04:34:29
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