ずっとそばにいる
実はやったことのなかった要素を二つ入れました。こんだけ主小田主を描き続けているというのに描いてないものだらけだ……。
(ミクシでは)あんだけウダウダ言いましたがよく考えてみたら小田桐に向かうのに自分の移入対象が女でもそんなに恐ろしいことにはならないのでした。わたしが小田桐夢嫌いなのはP3においては完全に主人公くん=自分になっているからだったのであって、性別が問題では(あまり)なかったらしい。
なので非P3主くんの男主人公夢はナシ、P3主くんの関係性の女主人公はアリ。そうそう、小田桐は、主人公くんという(あれだけの)関係性があるのに、他のもので救おうとしなくていいというか、なんかちがう気がして。ジェラシィット!!
という理由なので、「小田桐夢はダメ」と言いましたが、もしそれが「主人公くんが行ってしまったあと」のお話であるのなら場合によってはアリだと思います。痛そうで好ましい。もしかしたらわたしが書いているものは主人公くんらしきものがいるだけで実は「主人公くんが行ってしまったあと」の小田桐と自分のことを書いているのかもしれませんな。
贔屓目を抜いたとしても常識的に小田桐は主人公くんのことが好きすぎると思う。
あとわたしも小田桐のこと好きすぎると思う。(知ってるよ!)
話は変わりますが、わたしが小田桐に言いたいことは、ずっとそばにいる、ということなのかな、と、ズキズキします。
たとえ離れたり、ふいにもう会えなくなったりしてしまったとしても、声や姿を忘れても、ずっと、そばにいるのだと思ってほしい。わたしは不思議と、小田桐に「行ってしまった主人公くん」に縛られてほしくないと強く思ってます。P3以前はこんなこと考えたことがなかったので、P3が「死の疑似体験」だということは成功しているのだと思いますが、死んだ人間にとらわれていることは、かえってぜんぜん死者と近くない、と感じるのです。
感覚的な問題として、そばにいるのだから、安心していいよ、と思う。それは生者がしあわせでないと死者もうかばれぬ、という意味ではなくて、自分達が築いた絆のことを忘れられてしまったようで悲しいし悔しいのです。自分の細けーこととか自分と送るはずだった時間のことはぶっちゃけ忘れてもいいから、自分といて気持ちを交流して幸せになれたことを限りなく憶えていてほしい。そこ以外に、わたしはいない。生きていても死んでいても。
自分が死んだらみなさんにウエーンとなってもらうのは嬉しいですが、それはどっちかと言うと自己顕示欲とか「自分はこれだけの人間に正の価値を持っていたのだぞどうだまいったか」的な、自慢のターンにすぎないです。わたしは自慢大好きなのでこれは別におkですが、本当に絆と感じられるものって、価値の重い軽いの問題じゃないよね。
だから絆を交わしたと思える人には、ひとしきりウエーンとなったらあとはもうシャンとしてもらいたいな。そうじゃなきゃ価値だけで愛されていたみたい。まあ価値、というものの中には、生きてるだけで価値、あなたというだけで価値、とかそういうものも含まれますが、絆というのは「わたし」そのものの価値ではなく、「あなたとわたし」が出会ったときに得られた充足、ひとりではないと「わかった」、その「記憶」ですから。
「わたし」や「関係」はいつか変わったり消えたりしますが、深い「記憶」は外的要因でそうそう消えたりしない。消化されて、ずっと、その先に鼓動していく。それを忘れないで。それがわたしの残したいものであって、生きてて残せる唯一の「自分のもの」なんだと思ってます。
未来まで寂しがったりしないで
わたしがずっとそこにいるみたいに生きて
忘れないで
わたしがあなたの血肉だということ
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