磔刑のメサイアと真なる救い主
長編のプロットをまじめに考えつつ近代文学的に勉強する気になったおぼえがき
主人公くん=ゲーム中で明らかに示された共通認識 ハル=うちの設定
・メガテンシリーズのテーマのひとつは『神話の再現』
メガテンで起こっている事件の説明に良く使われるのは『再現』によって集合無意識に作用してその力を引き出したというもの。『神話』は集合無意識の寓話であり、扉であり、定義付ける鎖で、『再現』はそのよみとき演じなおし、鍵。『神話の再現』は『集合無意識の扉の鍵(を開ける)』。
またペルソナシリーズで言えば罪罰なんかでは特に顕著なことに、ペルソナ=無意識の力(3においては≒シャドウと明言されてる。ユング的な感じ)が『個人の神話』つまり一柱の神をその人物が再現していたりもする。これは神話が無意識を安全に表出させるためのアンカーというか、オブラートというか、『踏まえる伝統的な手順』であるということをよく表してる。そんなようなことを『偶像の欠片』依頼のときにエリザベスも言ってたよね。(P3やりこみすぎだ自分)
同じように心理学的要素を含む物語には神話をなぞることや神話の引用が多く見られ、というか『それ自体が神話的』といえると思う。見た目としてセカイ系ではあるけど、それは物語世界自体が寓意だから当たり前のことなわけで、セカイ系じゃなくて内面系。ぼくの、あるいはきみとぼくの世界で動く『セカイ』は、実際の世界のことじゃなくてあくまで自分たちの成長の範囲の世界でしかないというヒキで見れば当たり前のことを、話の背骨にしてる。
ウテナなんかは自らのセカイ系から脱するということをテーマとしたセカイ系なわけだ。
・気高さと主小田主(象徴的には小田主か)
小田桐にとっては父の言葉(“真心だ”)『きらめく理想』
ハルにとっては母の自由(もしくは知らぬ父なるもの)『自分だけの意志』
どちらも喪ったものであり、勇気の多面。小田桐においては抱き続けてはいるが傷つけられ否定したもの、ハルにおいてはいまだ持たず他者に見出し憧れるもの。
ふたりの求める(というより手に入れていく)気高さは違う面であり、相手はそれを気高さとも知らず自然に持っている性質である。それどころかときにそれはゆきすぎ短所として発露する。これはコミュシステム的に言うと、初期のアルカナの逆位置状態と見ることができる。つまり皇帝コミュでいう、傲慢、排他的正義、支配者の孤独。対立するものがいまだ統合されず、偏った価値から抜け出すことが出来ない状態。
取り戻された新しいものは、小田桐にとっては人を信頼するということであり、主人公くんにとってはゲーム時点ではみずからの内に小田桐の(みんなの)声を聴くということであり、そこから長編のテーマとして、それを真の関係・自立へ向かわせていく。
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