懲りずに実はウテナパロ(なので脱いでいるのはもはや仕様です)。もう一枚ウテナパロの絵案があるんだけど、劇場版の例のエロシーン(否定できない)のアレをもとにしてるのでやはり脱いでる。どうした自分……そんなに脱がせたいか……。
作中星空の体で描かれたのはあきおだけど、アンシーの黒い腕と字で書いたようにハルのユニバースのイメージ。実際こういう絵あったしね。(P3にじゃないよウテナにだよ)
一応話題としては1のつづきだよ
長編のプロットをまじめに考えつつ近代文学的に勉強する気になったおぼえがき
1と同じく主人公くん=ゲーム中で明らかに示された共通認識 ハル=うちの設定
・王子様の変容・あきおからウテナへ
初期皇帝コミュでの上で言う逆位置小田桐は、気高さ=信じた理想に挫折してそれを綺麗事とし、権力によって弱者を守る=支配しようとすることで自分を守る鳳暁生つまり『よくねえ男性性』の象徴だったわけだ。それがさんざん言っているようにやがてウテナとしての様相を呈すっていうのは別に変なことじゃなくて、暁生は『閉じた古い価値』、ウテナは最終的に『新しい自分(の気高さ)』、どちらもアンシーのものの見方を象徴してるんだよな。
まあ少女革命ウテナはアンシーを主人公にした構造だからこれは裏的な捉え方なんだけど、ウテナは『王子様は堕ちずに気高さを掴みました』という、男性性の昇華でもあったんじゃないかなと思うわけです。理想への挫折から新しい価値に立ち上がった小田桐はその時点でひとつの『世界の果て』を超えている。
小田桐にとってのディオスはパパであり、傷ついたそこにもう一度同じ星を示したディオスの影が主人公くんであり、『だったら私が王子様になって助ける』=救われたのだから自分も救い手にならんとする気高さというのが彼の言う教師の道なわけだ……。遠大……あの一生君を守る的発言は本当に遠大……。遠大で偉大……。
・ディオスもしくは優秀なアンシー
上の小田桐の項で述べたように、主人公くんは小田桐に再び気高さを示したディオス。そして全人類の罪を負って磔刑になるメサイアはアンシーとの共通項も多いけど、救い手であり救われた者たちがまた救い手になることで救われる(ある意味の復活を遂げる)ことができる、という人の気高さ=ディオス。
こういう主人公くんのまあ見た感じはそりゃちょっとアンシーライクだけども、やっぱディオスじゃん?な性質をふまえて、なおうちのハルがとてもアンシーであるというのは、その一見見えにくいが確実に短所というか成長過程で不全であるところの、あまりの受動性。これが小田桐のあきお=『よくねえ男性性』に対応するハルのアンシー(というか薔薇の花嫁)=『よくねえ女性性』なわけだ。暁生とアンシーの関係のダメさはコミュ初期の、小田桐が主人公くんを無意識に上から試すような気であったこと、ハルがそれに評価されようと緊張を抱いたことに対応すると思う。
薔薇の花嫁=『よくねえ女性性』というのは、まあここでの狭義でとると、個人としての意志を望まれず、自分の選択を放棄することでいっさいの責任を負わず、自分の外部の価値に従属することでの庇護に甘んじる、ということ。
ハルは博愛・受容的で自己が薄く(薄い『ことにしている』という側面もある)他を廃しときに否定しても貫きたい自分が、個人レベルでは無いに等しい。アンシーよりある意味たちが悪いのは、それでいて頼まれたことなら責任を持ってこなせるというところ。庇護されなくても立てる『能力』はある。でも自分のための『意志』を持てない。
それはとてもひ弱なことなんだよね。だから『意志』を示すウテナこと小田桐を見て、アバさまいわく『答を決するその勇気』としてその姿を内在化していく(つまり皇帝コミュポイントである)。ウテナと違うのは、その内在化して気高さを教えたその人に最初の『意志』を捧げて、さらに小田桐の内在化であった『意志』を自分自身のものに変容させていくということなんだ。
ちなみに小田桐の初期をコミュ初期のアルカナ逆位置で説明したのをハルにも適用すると、宇宙逆位置の沈滞、エネルギー欠如、見透しの悪さ、ってとこ。
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