おまえにやさしくされるくらいならしんだほうがまし
タイトルは鬱のソナタの短縮形とかではなくペルソナ関連の鬱っぽい語りをするということです。今更ですがP4の重大なネタバレがあります。
・「生きねば」の功と罪
小田桐はわたしの影であったアニムスと女をめざめさせ、だからこそなんとしても自分は男として生きねばならないのだという意識を強くさせたのだと最近思う。
小田桐イコール男性性に優しくされてはならないと思うんだよな。それは死んでいるよりも悪い。そんな顔を、させてはならない。彼は優しく笑うべきじゃない、自分に対しては。彼に許されると自分に許されたように感じるからなのか。
なぜわたしが「生きなければならない」という強迫観念を持っているのか、それは小田桐を好きなことと関係しているのだと思う。でも理由が明らかでないのなら、「生きなければならない」も「死にたい」もたいした違いはないのだ。生きなければならないと言う人はたぶん同じ数だけ死にたいと言う。
彼を眠らせたくない。だから、わたしも眠らない。でもそれだけじゃなくて、わたしは眠りたくないのだと、思えるようになりたい。生きたいと思えるようになりたい。どうしてそうなりたいのかな。そう思えれば気分が晴れるからだろうか。彼に、愛されると思うからだろうか。それとも彼を愛せるようになるから?
わたしはひ弱だから許さないでほしい。許さないで一緒に来てほしい。小田桐だけでなく絆を結んだ人が主人公をあきらめさせてしまうのは、とても寂しくてくやしい。不思議だなぁ、そうやってあきらめてしまえば、どこまでも楽で、愛されもして、何の不安もないというのに。なんか全然うれしくないのは、わたしが小田桐をとても好きだからなのだと、それだけは誇っていいことかな?小田桐はわたしの希望の光なのだから、曇ることが一番嫌だ。
・みんなの中にもアダチはいます
かつて千とちひろの雑誌インタビューのキャッチコピーに「みんなの中にもカオナシはいます」ていうのがあった。ジブリとペルソナは要するに似たような話だと思います。
世は足立ブームですがそれは足立がおもしれー人間だからではなく、むしろ何の変哲も無い人間だからにほかならないと思っています。足立を立てるも責めるも、まず足立透というのは自分なのだということを忘れてはならない。
足立が人を二人も殺し人を騙して誘拐殺人を教唆し精神世界の滅びの時限爆弾スイッチを押したことは、不謹慎な言い方をしてもいいならたいしたことしたわけじゃないのです。罪が軽いと言ってるのではなく、彼にとって大したことじゃなかったのです。足立と彼の絶望と彼がやったことはぜんぜん特別なんかではない。誰だって足立になり得、誰だってあの事件を起こすかもしれない。その人に起こったことによってものごとは起こる。でもそのふたつが、つりあいのとれたものであるとは限らない。だってまるで別の世界のことだからね。
足立の「俺を否定しないと、お前らが立ってられないんだろ」というセリフが好きです。あれとか、メインメンバーがこぞって足立にお叱りを与えることとかは、足立ってダメね!という意味ではなくて、世の中全員へのお叱りであり、そして「めっちゃ叱ってるけど、それでいいの?」という疑問を持たせる意味があるのだと思ってます。足立は彼の上記のセリフの通り、みんなの「影」なんです。主人公たちはしなかったけれど、この「影」と向き合って乗り越えるのは、テレビの前のあなたの仕事、というわけです。
イザナミかーちゃんのもとへ向かい、対峙しているときでさえも、わたしは「かーちゃんごめんね、今希望を見せてあげる」という心持ちだった。それがP4のシャドウとの対峙の流れなんだと思うんだよね。マガツ足立は一見すっげーむかつくけど、絶望に苦しむ寂しい魂でしかない。「もっとテキトーに楽しく生きたら?」と言って苦しむ足立に、テキトーでない輝きを見せに行く。わたしはなまために「あんたを助けに来た」と言った。足立に「現実の裁きを受けろ」と言った。イザナミかーちゃんに「人の可能性を見せてやる」と言った。助けたいとだけ思っていた。大丈夫だと思い知らせたかった。
みんな悲しくて苦しくて寂しい。わたしは千枝だ。雪子だ。りせだ。直斗だ。なまためだ。足立だ。そしてイザナミかーちゃんのいじらしさを愛してる。人は苦しみだけ神と共感できるという流血女神伝の一節が好きです。人と人にしろ似たようなところがあるのだと思う。与えた苦しみを乗り越えてきてくれる輝きによって悪が救われるという類型こそが、人の成長として一番ストレートな書き方なのだと思います。
まあ柚木見てたらそこらへん図太く鍛えられましたってことですね。
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