世俗の悪意から身を守るたぐいのもの
「この子はとても強い力を持っているけれど、世俗の悪意から身を守るたぐいのものではない」はヴァンEDでのフィーリウス兄上のセリフですが、勝手にレミーを想定した。そういう「たぐいのもの」の代わりになれとヴァンに言うのはややおかどちがいのような気もするけど、たぶんヴァンを選ぶ殿下にはヴァンがヴァンである力が必要ということなんだろうな。同時にレミーを選んだわたしの殿下にはレミーがレミーである力が必要だということなのかもしれぬ、と思ったらなんかしっくりきました。
なぜレミーにこんなにも執着するのか、はとても疑問でしたが、必要なものなのだと考えれば、そういえばそうかー!という感じで、感覚的にとても納得できます。
レミーは、わたしのパレドゥレーヌが、というかわたしの殿下が在るための補完的要素というか、うーん、とりあえず、イチャコラこけなくても、「そこに必要だ」ということが、一番重要です。
SEX PISTOLSのセスとザヘルの文句は
「誓え。お前は私の翼の下へ庇護を求める者か?」
「誓います。私を貴方のひと羽にお加え下さいませ」
ですけども、パレドゥレーヌが妖の宮と違っている一番大きな点、燃える点は、「誓い」というテーマなのではないかと思ってます。
わたしがなぜレミーにこだわるのか、それは↑で一応の解決をみましたが、一番わたしを悩ませているところの、「わたしはレミーに何を求めているのか(何が足りないのか、余計か?)」ということ、それは、大げさに言ってしまうと「永遠」なのだと思いました。
ディトリッシュは「永遠なんていらない、今があれば」という答えにたどりつきますが、レミーに対して使う「今」はそれとは違ったもっと、即物的というか言ってしまえばメッチャ短いものであって、むしろディトリッシュの言う「今」こそがわたしがレミーに求めている「永遠」です。(ディトがダンピールであるという時間の制約うんぬんという話ではなくて、気持ち的な意味で)
レミーは自分を保っている呪いとカラスにすごい縛りを受けているわけですよね。
それゆえ、レミーともろもろが重なったとしてもそれはわずかなひとときに過ぎず、わずかだから、と言い訳さえする。そしてわずかなひとときを何かと重ねることで飽かずにいるという、レミーそのもの。
永遠というものが、言葉尻どころか実際的にも存在するようなもんじゃねえということは、わたしにもわかっていますが、そうと思ったうえで、それを「志す」という意気こそが愛であり、永遠にいちばん近いものなのではないかと目指しているのです。ともに求道する気合いのようなもの。それがほしい。
だから、ひとつだけ、や、すこしだけ、は、いらない。相対的に見て人生の何もかもがすこしだけの間なのだとしても、全部だ、という気合いの入ってないものはいらない。
「レミー」はその気合いと真逆の人生観だよなと思うわけです(その人生観が変わっていく物語なのですが)。
そう考えると、レミーEDは実に素敵な流れだといえて、ガチョーンときます。まさにまさにそれじゃないか……。レミーEDはゲロ甘い言葉とクソ辛い言葉が入り乱れててどう解釈していいのか意味不明でしたが、なんかこの観点で見るとわかったような気がする。
結局レミーは素直な真実しか述べてないのな。
つまり、レミーはフィーリア様の傍にいたくて、でも「ひととき」を彩る悲劇にはしたくないと価値観を変容させて、少々時間と手間がかかってみっともないことを承知で、問題をどうにかしようという気合いを見せた、ということですね。そしてどうにかして戻ったあかつきには、そのときこそ誓いを捧げようとしている。
うわ……適度に泥くさくてカッコいいじゃないかレミー……。理想的で気持ち悪いから今まで気付かなかったのか……。
なんというか、レミフィリは観月野守の男女と視点を入れ替えたバージョン(レミー=野守ということ)だ、と、かつて言いましたが、つまりレミー殺し=キュウセイであり、レミーED=ギャグくさくなりつつも一緒に歩んでいくルート、ということなのだなー、と考えると、妙に納得がいきます。
幸せなEDがキモく感じられることがあるのはそれが制作サイドの無理やテキトーなごまかしが見えるからであって、幸せになること自体は気合いの入った実にけっこうな話だ。少なくともわたしは気合を入れて幸せな話を書きたいと思ってる。なぜならわたしが幸せになりたいからにほかならない。
参考までにパレドゥレーヌの剣の誓約の文句。
「我が父祖の血と、我が名誉にかけて、この剣に託す。
変わることなき親愛と、永遠の忠誠を。
戦場においては、わが身をもってあなたの槍となり、あなたの盾となることを。
願わくば、我がすべてを託したこの剣を、あなたに捧げん。
我が主、フィーリアよ。
我が誓いに偽りあらば、この剣で我が首を刎ねたまえ。」
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