P3は自分がニュクス教に浸からないための方法は示しているけど、他人をそこから引っ張り出すにはどうしたらいいんだろう。そういう気分なだけかもしんないけど、大きなお世話だとは思わねーよ、だってそういう人って一時的に楽しいことがあったとしても、幸せそうにはしてないんだもん。 まあ、すぐに何か変わるとは思ってない。一生毎日を使ってじっくりとやるさ。それでもわたしは明日自分や他の誰が死んでも恥じないようにいたい。責任を押し付けられる答はないから苦しく思うかもしれないけどそれはあたりまえのことだ。どうにもならないことに自分の選択をするのが意思というものだ。 「みんな大変なんだよ」とか「何を選んでも苦労するよ」っていうのは脅しとかじゃなくて、「苦しくても別にふつうだしそれはあなたの無能のせいじゃないよ」「むしろ正しくて普遍的な愛みたいなものだよ」って意味だと思ってる。精神的なことでいちばん苦しいのって結局孤独で、選ぶことはそれを癒す。 総合的に判断してわたしはP3のソフトではフェスが一番好きかなー(バージョンなんてマニアックすぎる好み誰もたのしくない) P3無印のあの得体の知れないかんじもすごくすごく捨てがたいんだけど、やっぱアイギス編いいよね!!あの救われない中に(主に戦闘を)苦しみながら降りていくかんじ! うーんでもP3=無印だよなやっぱり…。金と時間を少々かけてもいいならP3をこれからプレイする人(もしくはPS版をこれからプレイする人)には無印を一周やってフェスアペンドつけてもう一周してほしい。とか布教には妨げにしかならんことを思うほどに、無印からやっててよかったと思ってる。 このセリフには初見から好印象は持ってたけど(ていうか小田桐全般が好印象だけど)、これを聞いたかーちゃんが「こいつマリモみたいなこと言っとる」て言ってからよく思い出すようになった RT @odagiri_bot 弱音を吐くなど、僕らしくもない…迷いが生じるのは、僕に力が無いからだ。 べつにわたしは主小田主のイチャい小話やエロを秘匿しようというのではないんだが、お話のかたちに整えて書いてるわけじゃないから、つまり短編の冒頭にあたる部分がもちろんなくて突如としてツヤ声だったりするから、突如すぎてどう公開したらいいものかわからないのですだ いっそのこと小話のタイトルを「ハルややヤンデレてべったりとバック」とかにしてしまえば突如感軽減だろうか(今度はタイトルが突如だよ) PR 2010/07/30(Fri) 16:35:27
マリモがあれを読んだのは小学生のころだったけども、その当時から、もちろん小田桐と出会ったときのように初登場からそのいい男ぶりを確信していました。でもマリモのアンテナに即座にひっかかるような、つまり小田桐ポジの男が最終的には主人公の相手役になるというのがイズァローンのすごいところ なんかこれ似たようなこと前にも言った気もするけど、カウスとティオキアの配偶が深く印象に残っているからこそ、小田桐と男主人公を国士無双に絶対佳人とばかりにふたつひとつの関係と見たんだろうなー。なんかもうべつにうちの小田ハルはBLじゃないよ BLの定義がもうわからんよ ティオキアとカウスの物語はべつに燃える愛や無二の絆の話ではなく、「救い」の物語なんだよな。日本の少女マンガにおける少年愛ものがそのはじまりにもつ「耽美系」っていう流れのテーマは「魂の救済」であるようにおもうし、わたしもそれを意識して書いてる。美とは救済の姿の名前なのです。 おなじようにわたしは小田桐とうちの男主人公を「救い」の関係とみたわけな。トーマの心臓のユリスモールとトーマ‐エーリヒのように、人の孤独や弱さを愛してキリストは生まれ、その清らかな脆さに人の魂は救済される。 P3における主人公の死についてなんでわたしがサッパリとしてるかと考えると、そればっかりは主人公=自分と思ってることのよい側面といえるだろうなーとニヘラします。好きな子がいろいろ半ばで死んじゃったらやるせなくもなるけど、自分が自分の命をいっぱいに生きてると思えたらわりと平静だもんね 重要なのはP3というゲームがテーマの体感のために死とその前にある生を疑似体験するという意図であること、そしてそれを疑似体験したわたしが生きてるということです。だったらするべきことは、死にも恥じぬように生きる、それだけのことでシンプルだなと思うわけです。それ以上の必要はない。 なのでP3の二次創作は書き手が=主人公であるかそうでないかで前提の展開が変わってくると思います、つまり=主人公派であれば本人は生きてるわけでゲーム中の死は疑似体験という寓意だけど、そうじゃない派にはゲーム中の展開は寓意ではなく物理的事実の側面が勝つこともままある。 P3以外でもプレイヤーが主人公によってなんか経験するようなゲームにはそういう寓意のレベルみたいなのがあると思ってる。いや、ていうか、全部寓意か。ただ二次創作をするときにはゲームと同じテーマとつくりはもちろんしてないから、どういう基準でどこまでその世界を遵守するかを決める必要がある まあでもこれは「原作に感じたテーマ性に準拠したうえで書きたい!」という場合の話であってすべての二次創作にいえることじゃないんだけどね。一般化すると二次創作もその信念によって原作の要素を抽出すべきってハナシ。どういう意味の話を書きたいのかによって守るルールも違ってくる。 学問でも仕事でも創作でも日常のことでもマリモの思考の特徴は卒論中と変わらないです。何が目的でもだいたいいいと思う、ただ目的があるようではっきりさせようとしないのはダメだし、目的に合わせた方法や程度を選ぶべきだ。望むもののためにルールを決めて守ってこそ誇りも責任も持てるというもの。 中二病ってつまりコンセプトをはっきりさせられていないってことだろ?子どもがまだうまく考えられなかったり選べてなかったりいかようにも変化するのはふつうのこと。黒歴史っつーものが非常に恥ずかしいのはそれが拙いからじゃなくて、「今にして思えば十分考えず覚悟しないでやったこと」だからです。 表現にも人と同じように悪意をなだめて冷静に共感するべきで、たとえばコイツ読者にわからせる気あんのか、と思ったとしても、そこにはいろんな理由の可能性が存在して、もしかしたら、安易にわからせるようなことを言えない理由があって、そこにこそほんとうの意図があるのかもしれないのだ まあ結局誰にもわかってもらえないんじゃ表現してもしょうがないけど、漫然としてるだけでわかることだらけの世の中でもないのだし、受け取る側もジャンプすれば見えるか試みることはだいじだよね。そのうちジャンプ力上がるし、ときには読み手のジャンプ力を上げることを目的としてる表現さえある。 2010/07/22(Thu) 04:34:29
たべものイメージをマジにいえばうちの小田桐と男主はヤマメの塩焼きとかぼす、もしくは辛くてハーブ香のある白ワインとマリアージュ。ひとつの料理というよりやはりマリアージュですが。 小田桐ったら小さく清楚で銀色がかったクセのないヤマメさんをシンプルに焼いて頭からムシャー さすがわたし自分のことは魚料理だと思ってやまない生臭女王であるな ネタでなくうちの女主をたべもの変換するとサンショウかなんか?青山椒の佃煮?ちりめん山椒? スパイシーでちょっとツヤリとはしてるけどやはり攻撃的にスパイシー香り高い、それだけだとちょっと不毛なごはんのおかず そういえば今日海草サラダしか食ってなかった……。いそげー香味野菜サラダつくれーワインはどこだーないorz もやしもん8巻なう。沢木がかわいすぎて目をむく 教授のお話は毎度楽しく熟読するのでもやしもんはコストパフォーマンスのいいまんがだと認識している きのう何食べた?3巻も買おうか迷ったけどあれもコストパフォーマンスいい、料理まんがは食欲わくし特にあれは今日のおかずのインスピ源にもなる ソムリエールとかの酒まんがやグルメまんがというのはあるけど、酒類とそのアテをめぐる春夏秋冬酒はうまし的なまんがって見たことないな。いろんな酒をおいしく飲むために酒肴をいろいろ試して楽しむっていうのはすごくおもしろいしそういうのあったら読みたいし自分でも書きたいな。マリアージュ! 2010/07/19(Mon) 03:08:16
'Cause a prize beyond my reach. P3Pネタバレ 見ての通りだよ!!!!!(自棄) 2周目で(ここ強調)小田桐に告られるイベントを見てしまって死にそうになりました。 結論から言えば、わたしはたとえ自分が女であろうとも小田桐とまごうかたなき親友でこのコミュをMAXしたいと思ったので正直このイベントとは無関係なのですが、一応見ました。とキッパリ言いたいところなのだが奴はこのイベントのフラグを叩き折っても最終的に思わせぶりなことを言ってきやがる……(怒)女とは親友になれないってェのかいい度胸だ(バキバキ) まさかこんだけ言っといて最終的な思わせぶり(前に君に言ったセリフは僕にとってあのとき考えてた以上に意味があったんだよ、自分でも気付いてなかったけど、的なこと言われた)が同じってこたなかろうと思うので一応2周目もEDまで見たいと思います。もし同じだったらしつこい、しつこいのに自己完結、悪い意味でずるい、おまえはおれか、でもずるいのが人間なので小田桐がずるいのはうれしい(完結) ちなみに2周めは天田様の生脚に顔を擦り付けて死にたいと思う。 (児ポ班くる) しかし実際のところどうなんでしょうねこれは……。上記のようにこのイベント自体はわたしにはほぼ関係ないのですが、結局なんか思わせぶりなこと言われてしまったわけですし、しかも二次創作上の常識としてはこのイベントはおさえられる、というサブ事情も考慮するわけだろ。 というのも「この二人」が今後どうなるのかってことですよ。 P3は死の疑似体験ゲーであり、その主題・目的としては「死に触れる」「よく触れることで死とうまくつきあえるようになる」っていうことで、要するにプレイヤーにユーフォリアをさせるゲームなんですよ。と江戸川先生の授業でうまい言い方を思いつきました、というわけでコミュEDイベントというのはユーフォリアの感動演出をして「よい」死へのタッチをしてもらうためのものなんですが、でも感動だからといって感動だけを大事にしてもしょうがないんだよな。死にネタの感動っつうのは、「ああ死んでしまうんだな……もう会えないんだな……」という感動だけで終わってしまっては単なる勝ち逃げワッショイで、ホントはもうひとつ「死んでもいい満足」と「生きていく気概」を両立させてこその真の死にネタだと思うんすよ。 具体的には何が言いたいかというとわたしたちは小田桐の言う「いつか」や「もう一度」について、たとえそのときが来ないにしても、来ないということに「安心」せずに真剣にアタフタしたり覚悟を決めたりしなければならない、そうじゃなければ彼を愛して生きることができたとはいえない、ということなのです。もちろん「play(仮想)」は大事ですから、来ないという「安心」にくつろぐことによって彼の言葉の輝かしさをかみしめることはすばらしいんですけど、それだけじゃね。わたしはP3Pをアトラスの言うとおり「RPG(役割をplayするゲーム)の決定版」として全力で「遊」ぼうとおもってるから。 今までにもいろいろ説明してきましたが、わたしの描く「彼らのその後」というのはその、来ないことに安心しない、自分が生きていく気概、みたいなものなのかなーと、女主人公編をやって得られました。本当に小田桐は莫大なことを学ばせてくれるなぁ。 うみねこに「抗えばミステリー、屈せばファンタジー」みたいなこと書いてありましたけど、P3は「観ればミステリー、生きればファンタジー」なのかなと思いました、ファンタジーの使い方かなり違いますけど。ファンタジーっていうのは、仮想、うそごとの世界に「身を投じて遊ぶ」、ということね。P3のシナリオはストーリーとしても十分だから「観る」価値もあるし、そしてアトラスのゲームのゲームらしくすばらしいところとして「生きる」こともできる。 ゲームを「遊ぶ」、ゲームに「遊ぶ」ということの価値は、そのことを「自分で体験する」ことができるというところにあります。「生きている」。世界を自分の目で、自分の体で「わかる」「そう感じる」という納得は、「真剣な仮想」だから――つまりは「仮面をつけている」からこそ、如実に得られる価値ある体験なんだと思ってます。仮面が真実を誘発し、表情豊かにふるまうために仮面をつける、「遊ぶ」ということはそういう価値と最近授業で考えています。 淡く 気高く 清く あなたの胸で そっと微笑み続ける花になって (天野月子/Love Dealer) 2009/12/13(Sun) 03:43:24
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